縁起と歴史

家原寺は寺伝によりますと慶雲元年(704年)、行基菩薩が37歳のときに、ご自身の生家を寺に改めたことに始まると伝えられています。行基菩薩はその後、各地を巡って仏法を広めるとともに、溜池や橋の建設、貧しい人々の救済など、社会のために尽力されました。その慈悲深い行いは多くの人々の信仰を集め、やがて朝廷からも深く敬われるようになります。

天平2年(730年)には、聖武天皇の勅命により、家原寺の伽藍が修造され、寺としての基盤が整えられました。

さらに時を経て、文暦2年(1235年)には行基菩薩の墓所が発掘され、寛元3年(1245年)には高僧・興正菩薩(叡尊上人)がこの地を訪れ、戒壇を設け、護摩堂などを新たに建立して寺を再興されました。叡尊上人は「家原寺 中興の祖」と称されています。

江戸期には領主田安家から境内2万8千8百坪の祖を免ぜられ、6支坊を有しましたが、明治の初め多くの支坊が廃絶、塔の破壊など苦しい時代が続きました。

昭和20年の堺大空襲により堂宇を焼失しましたが、昭和24年に仮堂を建立。 さらに昭和40年、行基菩薩の住居地と伝わる家原寺・清涼院の一角に移転し、復興を果たしました。

昭和53年には塔頭中院大師堂が建立され、平成元年(1989)には三重塔が再建されました。

家原寺 本堂文殊菩薩

《 一乗山 清涼院 家原寺 》

家原寺 本堂
宗派 : 行基宗(真言宗系単立 基は高野山真言宗)
本尊 : 文殊菩薩
開創 : 慶雲元年(704年)
開山 : 行基菩薩
中興の祖 : 興正菩薩(叡尊)

詠歌

みたらしや いずみの蓮の浦風に 
なみもみのりの こえやたつらむ

奈良国立博物館所蔵 家原寺_行基菩薩行状絵伝-第1幅
行基菩薩行状絵伝-第1幅
奈良国立博物館所蔵 行基菩薩行状絵伝-第2幅
行基菩薩行状絵伝-第2幅
奈良国立博物館所蔵 行基菩薩行状絵伝-第3幅
行基菩薩行状絵伝-第3幅

行基菩薩行状絵伝

家原寺に伝わる「絹本著色 行基菩薩行状絵伝」は、行基菩薩の生涯とその信仰をえがいた三幅一組の絵伝で、国の重要文化財に指定されています。
「菩薩祖宗篇」「菩薩四十九院建立篇」「菩薩御遺戒篇」の三部からなり、正和5年(1316年)の『行基菩薩縁起図絵詞』に基づいて制作されたとされています。
かつては僧侶がこの絵を前に物語を語る「絵解き」に用いられ、人々の信仰を深める役割を果たしたと考えられています。

文化財のご紹介

家原寺境内 大阪府規則指定 史跡 奈良

行基菩薩行状絵伝

行基菩薩行状絵伝 3幅 鎌倉時代 重要文化財
(奈良国立博物館寄託)

家原寺石造板碑

家原寺石造板碑 1基 大阪府指定
室町・天文20年(1551)

追善や供養などの目的でつくられたもので、多数の人名とともに神野、家原、毛穴など周辺の地名が刻まれています。

歴史

古代(奈良時代)
慶雲元年(704) 行基、母方の生家を寺に改め創建(寺伝)
天平2年(730) 聖武天皇の勅命により、伽藍を改造
中世(鎌倉時代)
寛元3年(1245) 興正菩薩(叡尊)が止錫し再興。護摩堂などが建立される。
戦国~近世(安土桃山~江戸時代)
戦乱や兵火で衰微ののち、天正2年(1574)頃 再建の記録(堺市史料)。江戸期には田安家の帰依があり寺領の寄進が行われる。
近代(明治時代)
廃仏毀釈の影響で荒廃。塔などが失われる。
現代(昭和~平成・令和)
昭和期 堂宇の修理、伽藍の整備が進められる。
昭和53年(1978) 塔頭中院・大師堂 落慶法要。
         行基誕生1310年祭り 百人僧供養厳修。
平成元年(1989) 三重塔再建 落慶法要。
平成30年(2018) 高野山真言宗より独立。
令和5年(2023)  文殊山再生植栽・伽藍再整備を開始。
令和7年(2025) 鐘楼屋根替修理 落慶法要。
家原寺大門仁王

ご参拝案内(アクセス・拝観)

所在地

〒593-8304
大阪府堺市西区家原寺町1丁8-20

TEL

072-271-1505

拝観時間

開門10:00/閉門16:00

アクセス

【交通機関でお越しの場合】
JR阪和線「津久野」駅→南海バス「文珠前」下車

【お車でお越しの場合】
GoogleMAPに家原寺を入れると裏門の方へナビ案内されてしまいます。家原寺 南大門(仁王門)へ検索先をいれてください。正門の駐車場へ案内されます。

駐車場

あり
(有料 旧500円硬貨が必要です)
寺務所の方で交換、ご祈祷時にコインをお渡しさせて頂いております。
詳細は寺務所へお声掛けください。